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インタビューシリーズ スペシャル
群馬県上野村村長 黒沢 丈夫さん



連載第1回 子供の頃の話から兵学校入学まで
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連載第2回 冬は小鳥、春は川
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連載第3回 中学にやるからな
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連載第4回 受かったよー
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連載第5回 試胆会知ってますか
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連載第6回 なまければすぐ悪くなる
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連載第7回 ひょっとするとひょっとする?
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連載第8回 人間なんてのはね・・・
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●このインタビューは、2004年の正月に上野村を訪ねて伺ったものです。

黒沢丈夫さんの略歴:
大正2年生まれ。前群馬県上野村村長(2005年6月退任)
過疎の村の産業振興などに多大な功績を残した。40年間という村長在位年数は全国最長。1995年年から4年間、全国町村会長。第二次大戦中は零戦のパイロットであった。終戦時は海軍少佐 。


  子供の頃の話から兵学校入学まで

【大正年代初期の上野村の生活は自然から恵んでもらっているものをちょうだいして、自然を相手の生き方です】

自然を相手の生き方ですかね。要するに自然から恵んでもらっているものをちょうだいして。

ここで米は作れません。麦を作るところは相当あります。麦を主体にして、あとは一番とれるのは粟(あわ)だとか稗(ひえ)だとか。そういうものは土地が荒れてても割合採れるんです。そういうものを食べながら自給自足して、それであまり現金収入というものはなかったんです。

そのころは現金収入はどういうものに頼っていたかといいますと、一番の昔の頃は、山にある木を使って下駄を作ったり、木鉢を作ったり、そんな簡単なものを作っておりました。難しいものはできません。そうして、下駄の甲羅といいますが、そういうものを仕上げないで板にして、それを積んでおいて乾かして、それを売る。そういうことなんかやっておりました。それは相当昔の話でありまして。

今は、国道や県道の付近に比較的人口のある集落がありますけれど、昔はそうじゃないんです。山奥にも集落があるんです。そういうところが木を使った仕事をやってたもんだから、案外人が住んでおりましてね。そういうところに、たとえば昔は芝居をやるなんていったら、村中の大騒ぎですよ。提灯を持ってそういうところまで行って、芝居見物をやったというような時代でした。よそから回ってくる人もありますけれど、大部分は自分たちでやるんです。それは私が生まれた頃の話ですが・・・。

◇◇◇

【お正月なんていいますとね、相続人の長男は遊ぶ時間なんかないんですよ】

私の少年の頃はまだ電気はつきませんでした。ランプでございました。お正月なんていいますとね、相続人の長男は遊ぶ時間なんかないんですよ。例えばね、朝、神様に対するお勤めがありますよね。お勤めにお茶をあげる神棚が十いくつあるんです。それから御神酒をあげるのも同じくらいあるわけですよ。私んちは朝はおかゆなんですが、おかゆをあげる所も十いくつある。そのほかに、お正月に棚を作りましてね、今年はどっちの方を向くとか、向きを変えて作って。それ同じものをあげて、最後に灯りをあげるんですよ。灯りなんか行燈でしたね。皆さんにお話ししてわかるかな。行燈の中に入れるのは、油ですよ。石油じゃなくて油。いぐさを芯に油を滲みらして、其所に火をつけて、上へあげて、それが一通り終わって、相続人の仕事は終わるわけです、朝は。それを夜もやるんです。

私のところはたまたま親父のほかには男ばかりでしたから、私が長男で、次男が二つ下で、三男が三つ下で、四男は早逝しましたけれど、最後に生まれたのは今生きている万場にいってる妹です。5人だったけど、実際に生きてたのは4人。私は4人の長男でしょ。だいたい小学校の4年生ぐらいからそれやらなくちゃいけない。そういう時代ですよ。

お正月は、私んちは少し旧家で村でも重きをなしてたから、よその方が幾人も、集落5人なら5人、10人なら10人、集まってご年始に来るわけですよ。昔はそういうものですよ。それにはお袋が接待したけれども、こんどはそのお返しですよ。私の親父はね、自分で行く家は本当に重要な家っきりで、あとはおまえが代わりだなんて。こういうふうに言われて行くでしょ。だからお正月なんか遊ぶ暇なんかないですよ。

夕方2時になると太陽が山に入るんですよ。4時半ごろ暗くなるでしょ。そうすると、暗くなる前にまた夜のお勤めをやらなきゃならないでしょ。私は富岡中学校へ行ったんですが、冬休みに帰ってくるでしょ。それをね、当然長男だからやらなくちゃならない。そうするとね、先輩あたりが中学校の代用教員やってるわけですよ。「おい、いいとこへ来た。トランプやろう」なんて・・・。そうするとね、5時頃まで帰れない。家に帰って親父にこっぴどく怒られまして。

注)このインタビューは、未来編集株式会社・元気塾準備室・回想シリーズの第1回として行われました。村長に就任後の話や日航機墜落時の話はこれまでにかなり伝わっていますが、村長としてのリーダーシップが培われた幼・少年期についてぜひ知りたくてお話をうかがいました。


冬は小鳥、春は川

【冬の遊びは小鳥をとることです】

普段はどうかといいますとね、それはまたおもしろいですよ。私の冬の遊びは小鳥をとることです。たとえばね、ヒヨドリがいる、ツグミがいる、ホオジロがいる。ああいうのをこのくらいの木の枝を切りましてね、枝を曲げて、弓のようにして、これにひもを結びつけて、棒を両方からぶら下げるわけですよ。それに下の方から同じような棒を置いてね、こういうふうに下の棒は下の方に石が置いてあって、きちっと動かないようになっているわけ。真ん中に餌を置くわけですよ。そうするとね、冬は餌がないから粟の実をついばみに来てのっかるでしょ。のっかるとバタッときて首しめられちゃうんだよ。そういうのをね、5つ、6つ作っておいて学校から帰ると回って歩いて、捕れてるかな、とそういうことをやったりね。

雪が降りますとね、私んちの蔵は少し軒がよけい出てたもんですから、軒の下には雪が降らないわけです。それに今度は籠でね、これはまあ籠でもいいし、板でもいいんだ。これに石をのっけて、さっきいったようなのを作りまして、この下に米でもなんでもまいて、その上に小さな棒を渡して、バタッと落ちると。これは雪の日にはやりませんでしたけれど、ホオジロは夫婦で飛びますから、たいがいホオジロが二羽ずつ入りますよ。そんなことをやってますよ。

捕った鳥は、大きな鳥籠みたいな、餌くれるところが開いてて、あちこちにとまる枝があって、冬の間は餌くれるんです。慣れますからね。慣れてね、春になると逃がしてやるんですがね、逃がしてやっても一週間ぐらいは自分の家のす箱のところにね、遊びに来ますよ。す箱は親父に作ってもらったりね。まあそれから、子供のくせにのこぎりを作ったり、鉈(なた)を使ったり、ずいぶん細工しましたよ。そういうことを冬はやります。

◇◇◇

【春になると今度は川ですよ】

春になると今度は川ですよ。今は川の水はどっちかというと汚れました。今、ここ上野村は全国でも有数なきれいな水なんです。そこで計って尾瀬の水よりきれいなんですよ。それでもね、カジカがいないんですよ。私が子供の時はいっぱいいた。そうするとね、2月はほとんど水のチョロチョロあるかないかっていう所にカジカいるぐらいですよ。石の隙間がありますわな、そういうところにオスのカジカが中に入ってるんです。するとね、メスがここをめがけて入ってきて卵を産み付ける。そうするとオスが精子をかける。二匹も三匹も次から次に。それをね、我々は卵が欲しいから、畑で使う鍬を持って行ってよっこらしょと起こす。それ取って家に行って煮て食べるわけ。

それから春から秋にかけては泳いでるやつを、カジカだとかハヤだとかヤマメだとかイワナを捕るんですよ。夜は大物を狙うんですよ。ウナギだとか、ナマズ捕るんです。夕方ミミズをほじくりましてね、針にミミズを刺してなるべくミミズが死なないようにさしておくんです。夜そういうところにウナギだとかナマズがいるでしょ。それを朝早くからお袋に「朝早く起こしてくれ」と頼んでおくんです。朝起きて、裸足で石の上を歩くと痛いですよ。それで一つずつ15も20も入れてるやつを上げてくんです。10か15やっておくと三つぐらいかかりますよ。ウナギはたくさんいないからめったに捕れない。ナマズはよく捕れるんです。そんな遊びばっかりやってました。

だからね、学校に行きましても、学校で教科書を勉強するだけ。勉強というのは、学校の先生に教室で教わるだけが勉強であって、家に帰って予習をする、復習をするなんてことは全然やらん。第一、こういう新聞が私の小学生の頃は郵便局からまわってくるんですよ。村内に新聞を読むなんて人は何人もいませんからね。三日遅れくらいの新聞が回ってくるんですよ。それを読むぐらい。新聞は学校へ行って、ひらがなが読めるようになると読みました。昔の新聞は、今より字を読める人が少なかったから、仮名がふってあるのが多かったですよ。新聞はたしか毎日新聞じゃなかったかな。東京日日新聞ですよ。郵便と一緒ですかね。三日おくれか四日遅れ。そういう状況ですよ。それが私の小学時代の毎日毎日でしたよ。


中学にやるからな

【親父がね、付近の子と一緒に私をテストしているわけです】

そういう中でね、私は小さい時に二回東京に行ってるわけです。ばあさんが酒を造ってて、当時は酒を造っている家は金持ちになれたんです。体が弱かったんで、当時、ばあさんが五番町のお医者さんのところへ入院してて、雑司ヶ谷に家も借りててね、雑司ヶ谷から病院へ見舞いに行ったりして。叔父が赤羽に貸家持ってた。退院してから、ばあさんとそこにおりましたね。小学校一年生に入る前の年までそこにいました。小学に入る前、4歳ぐらいからいました。
それでね、よくばあさんや叔父夫婦が私をテストするわけです。バカかりこうか。何を聞かれてもできない。「この子はバカだバカだ」と言われたもんです。1年に入る6歳の時3月頃、親父が迎えに来て家に帰りました。それから小学校2年まで、今の「かじかの里学園」が小学校ですよ。そこに通いましてね。二年たった。
そうしたら、私の家のこれも癖なんですがね、みんな30代か40代に一度江戸に出るんですね、一攫千金をみて。私の親父もばあさんが金持ってたから東京へ行って一儲けしようと思って行ったけど、なにやっても儲からない。これはしょうがない、家へ帰って百姓やるんだ、というんで、12年の震災の15日ぐらい前に家に引き上げてきたんです。帰ってきて、村の小学校に9月の1日に行ってるわけですよ。その際にこれ(地震)ですよ。それで助かった。
それで4年の後期から5年と6年を上野村で勉強しましてね。6年になったら親父が「おまえ中学校にやるからな、勉強しろ」っていうわけですよ。東京じゃバカだバカだって言われたわけですよ。ところが小学校に入ってからね、子供たちといっしょに遊びながら学校へ行って、遊びながら帰ってくるでしょ。そうするとね、帰りに親父が酒蔵の黒板の前で準備してね、ちょっと道路は家の裏なんですが「おーい、みんなちょっと寄ってみ」って、呼び寄せるわけですよ。字を書いてね、「この字はなんて読む?」そういうふうに聞いたりね、「一たす二はいくつだ?」というようなやつをやるわけです。なんのことはない。親父がね、付近の子と一緒に私をテストしているわけですよ。そうするとね、私がみんなより一番できるんですよ。「なんだ、バカだバカだと言われたけど、バカでもねえじゃねえか。」と。そのころからだんだんだんだん中学校へ入れようというようなそういう気持ちが親父の心に培っていかれて、6年になると「中学校へやるからな」と言われるわけですよ。


受かったよー

【早速中学校の帽子をかぶって、家に入る前から「受かったよー」って帰ってきた】

中学校へ行く人は、ここは一つの小学校にね、一人いたりね、2〜3年に一人いたりする程度ですよ。そういう状況ですからね。それじゃあ大変だということで親父が頼んでくれて、放課後教室に残って6学年の先生に教えてもらうわけですよ。だけど、こっちもね、そんな勉強したことなんかないんだから。居眠りばっかりしてて、勉強なんかできやしない。
そこへね、私の親父より年は一つ下なんだけど、東京の獨協中学を出た叔父がいてね。東京の、一中とかナンバー中学の試験問題集を送ってよこすわけですよ。こっちはそれ見りゃね、一つもできるのがないんですよね。それで「こりゃあだめだわい」と思った。それでもね、受けろっていうから、受けるためにね、富岡へ行って、富岡の旅館に泊まったら、叔父が心配して東京から来てくれましてね。一緒に泊まって試験みてくれたんです。私が試験場から出てくると、「これはなんて書いた?」って答え聞くわけ。できてんのはほとんどないんだよ。
富岡というところは七日市というところに学校があって、富岡の駅から一駅だけど電車に乗るんです。そうするとね、町の子供がいろいろ試験のことしゃべっている。向こうは先生ほどできるんだよ。こっちはなんにもできない。ああ、もう度肝をぬかれちゃう。それでね、合格者発表になりました。合格者は一番から巻紙に書いてあってね、こう張っていくんです。こっちはできなかったことなんか、ちっともそんなこともわからないから、一番先から自分の名前が出るか、と見てたわけです。そうしたらいつまでたったって出やしない。そのうち巻紙がなくなりはじめた。これは落第だなと思ったら、おしまいの方の5人ぐらいの所にひょろひょろっと、黒澤丈夫っていうのが出てきた。その瞬間にできなかったことはみな忘れた。それで優等生のやつが受かったぐらいの気持ちになっちゃって、「バンザイ、バンザイ」。そういうことがありました。家へは早速中学校の帽子をかぶって、家に入る前から「受かったよー」って帰ってきたわけ。


試胆会知ってますか

【寄宿舎生活というのはよかったですよ】

そんなわけでね、中学校は入学できたんだが、一学期ですよ、問題は。当時はね、遠くから行く子供は歩いて通えないから、上野村から寄宿舎に入ったんです。5年生、4年生、3年生、2年生、1年生、まあ7人か8人で寄宿舎生活をやって。寄宿舎生活というのはよかったですよ。後のためには。

試胆会知ってますか。肝試し。七日市というところに中学校がありましてね。その前のお宮、杉のこんなのが生えてるお宮っていうのはこわいですよ。それから少し行くとね、昔の七日市藩っていうね、前田(利家)の一番下の利孝の一万石の城があった。そこの城の首切り場がある。首切り場に竹箒が立ってあったりね。お寺の新仏の所にね、そういうのが立ってたり、1年生はどこを回ってこい、2年生はどこを回ってくる・・・。夜。夜だよ。新仏の夜は明かりがつけてあるでしょ。あれは気味が悪いですぜ。それに自分の名前を縛りつけてくるんだから。

一番いやなのは、あの一宮というところに、群馬県でも一番格式の高い貫前(ぬきさき)神社というのがある。裏から杉林の間を根っこにけつまづきながら登っていくんですよ。それで神社の所へ行って拝んで、今度は表から降りて帰ってくるんです。それにもみんな名前を付けて来るんです。試胆会やられて、それでその晩終わり。そうかと思うとね、上級生が少し平素の行いが悪いやつは集めて廊下であれですよ、びんた。そういうことをやられながら一学期過ぎた。


なまければすぐ悪くなる

【人間なんていうものは勉強すれば良くなるし、なまければすぐ悪くなる】

だから一学期の勉強なんかしやしない、予習も復習も。通知票をもらった。今はあなたがた1、2、3、4、5でしょ。私んときは甲乙丙丁、4つですよ。当時は落第なんてどんどんありましたからね。上から4人落第してて、私ども100人採ったから、104人ですよ。104人の内の私が94番。丁が三つあってね、丙なんかざらだ。甲なんか一つもない。乙が一つか二つ。それを持って行って、上級生に見せた。「丁が4つありゃ落第候補生だね」って。「まあ、丁が三つだけど、丙がうんとあるからこりゃ落第かもしんないなあ」そう言って脅されたんです。

それから今度は家へ持ってきたですよ。親父にこっぴどく怒られたね。「なにやってたんだ」と。「勉強せんと落第したらおまえ家に帰ってきて百姓だ。こんにゃくの草むしりやれ」と。「落第したら中学二年やらないよ」と言われました。
そこでね、目が覚めたな。これはいけないと、百姓じゃかなわないと。一生懸命勉強しようと思いましてね。当時の校長先生だとか、前の教わった先生のところへ出された宿題を全部持っていって、みんな宿題なんか全部やってこないですよ、それを私は片っ端からやっていったんですよ。

特に難しいのは算術の応用問題ですよ。できるやつなんかないですよ。ところがね、教えてくれる先生は、物理学校出た数学のできる先生で、教えてもらいましたよ。数学はほとんどやっていった。それで、まあとにかく夏休みの宿題はよくやったというので、それで少しほめられた。二学期からはね、勉強の仕方から勉強したね。まず教わってきたことは、その日の内に復習しなければだめだ。できれば次の日の勉強を予習していくんだ。予習復習やるんだ。そういうふうになりました。そうしたらね、二学期は60何番になりました。勉強したらよくなるんだということがわかってきた。わかってくると同時に自信もだんだんついてきた。三学期は三学期で一学期と二学期で一緒になるから、番数が75番に下がった。

人間っていうのはこういうものですね、数理的な知識っていうのは予習も復習もしなくてもね、遊んでて、魚釣りしても鳥を追っかけてもこれはりこうになりますよ。数学はほとんど応用問題が出たんです。よその連中はほとんどできない。私は応用問題はたいがいできた。だから1年生で応用問題ができたのは、私が一番ぐらいできた。そういうふうになりまして2年生を続けてやりまして。2年生には60番から50番ぐらいになりまして、落第の心配はなくなりました。

3年生になりましたら、今度は昔の中学校は3年生は物理だとか化学だとかそれから英語作文だとか、そういう新しいのが入ってきますよ。これは今度は町の連中とスタートが一緒ですよ。特にね、私には化学だとか物理なんていう科学的な分野には適性があるんですよ。だから3年になったらぐーんと上がっていった。30番ぐらいになってね。私が先生ぐらいに出来ると思ってたのが落第しちゃったんです。これは人間なんていうものは勉強すれば良くなるし、なまければすぐ悪くなる、というふうに思って、3年から一生懸命やりました。それで4年、5年と。5年の時にはもう10番以内に入ってた。そういう状況でした。


ひょっとするとひょっとする?

【こういうのが学校へきてるけど、だれかもらって行って受けるのは居ないか】

その5年の時に、昼飯を食う時に担任の先生が海軍兵学校の入学願書を持ってきてね。「こういうのが学校へきてるけど、だれかもらって行って受けるのはねえか」と言われた。とても兵学校なんて・・・。群馬県中ね、私の上に兵学校なんてだれもいない。4年生もいない。3年上も1人もいない。2年生もいない。1年生で私のクラスがいきなり4人受かったんだ。そういう状況だった。だから兵学校なんかとてもできると思っていなかった。

だけれども、兵学校に興味を持ったのは、私の入学試験を見てくれた叔父がね、非常に海軍に縁があるん ですよ。黒澤家というのがあるでしょ。あそこはなかなかの名家で私んちもあの一家なんです。私のばあ さんの一番の姉さんは長野県の今の八千代村という所にお嫁に行きましてね。そこで産んだお子さんが畑 良太郎というね、小村寿太郎外務大臣の秘書官やった人ですよ。明治の頃の大臣秘書官というのはね、二 頭馬車で引いた馬車に乗って通うような人ですよ。

畑良太郎さんの妹が海軍の飯田久恒さんところへ行った。東郷平八郎の副官兼参謀をやってた飯田久恒、この人は連合艦隊の参謀でね、Z旗をあげた三笠の絵がありますが、あの絵に参謀肩章を吊ってね、ラッタルを上っていく人、あれが飯田久恒。叔父は、飯田久恒さんところも行って知ってるわけですよ。また、叔父は畑さんがアメリカに行ったときはついて行って、英語がしゃべれた。それでね、当時は写真なんていうのはね、日本じゃあまり写せなかったんですよ。そのときに向こうへ行って写真の技術を学んできたんです。それで金は持ってなかった。

金を持ってたのはね、池田東洋というオリエンタルという会社を興した人がいたでしょ。オリエンタルの社長になったのは池田で、叔父といっしょに帰ってきて、日本でオリエンタル工業やったんです。叔父はその技師長で、オリエンタルという名前は叔父がつけたんです。そういう人だったから、私が海軍を受けるって言ったらね大賛成。

それで受けたでしょ。受かるとは思ってなかった。築地の経理学校で試験を受けたんだが、兵学校は受けますとね、まず最初は体格検査ですよ。それで、毎日毎日落とすんですよ。翌朝行くと自分の受験番号と写真が出してあるんですよ。もう来なくていい、持って帰んなさいと。

4日ぐらいありますよ。次は歴史、次の日は幾何だら幾何。今日は落とされるだろうと思うと落ちてないんだね。それで、最後の日まで4日だか5日、全部試験受かった。一応東京じゃ合格ですよ。ひょっとするとひょっとする、と思ってね。家に帰ってきたですよ。そうしたら、さすがに入学はできなかった。62期じゃ。

人間なんてのはね・・・

【勉強すれば、まじめにやれば、人間は能力のありたけを発揮することができる。怠ければどこまでも落ちる。だからね、人間は出世したからと言って天狗になってはいけない】

それでね、これじゃ来年もう一度受けてみる価値がある、っていうんでね、ずーっと受験勉強やりましたよ。できないのは暗記物。ぜんぜんだめだったから暗記物で落とされると思った。ところが、その暗記物の歴史の先生が非常に思想的に私と同じ歴史に対するものの考え方で、たとえば、天の岩戸の神話について考えるところを記せ、というような大きな問題が出るんですよ。そうするとね、私は、何のたれべえは絵描きの名人だった、というようなのは一つも知らないけど神話に対して所信を書けなんていうのはね・・・。神話というのは大和民族の理想を述べているんであって、どういう国を造りたいっていうことが、その神話の中に書いてあるんですよ。あの先生に講義聞いてみると、これじゃあオレは受かったわい、と。この先生のおかげで助かった。

あと数学や英語やね、そういうのは翌年は長野で受けているんですがね、みな受かりましてね。5000人ぐらいの内の34番で受かったんです。だからね、私は若い人によく言ってるんですよ。人間なんてのはね、できるったって、できないったって紙一重ですよ。少し一生懸命やれば10番以内になる。少し怠ければ落第だ。だからバカだりこうだとすぐ自分で判断して怠けちゃだめだ、と。怠けないことが大切だと。そういうふうによく言ってやってるわけ。

そういってやってる私がですよ、兵学校に入ったら、「なーんだ、天下の秀才たいしたことないや」って。一高か兵学校かっていうのが、オレが34番なんだ。たいしたことはない。さあ、早速怠けだした。そうして、一学期は60何番。卒業するときは83番。123人中の尻から3分の2ぐらい。それでね、つくづくと感じたことは――そういうことはみんなよく書いてやってくださいよ――勉強すれば、まじめにやれば、人間は能力のありたけを発揮することができる。怠ければどこまでも落ちる。だからね、人間は出世したからと言って天狗になってはいけない。成績が悪いからといって悲観する必要はない。一生懸命やればすぐ良くなる。そう思うようになりました。